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人新世の胞衣 | 結城正美
大小島真木との対談「身羅万象―森と連なる身体」の余熱
朝から容赦なく暑い。いつもは暑い暑すぎると悪態をついて終わるところだが、今朝はちがった。ベランダで空を眺めながら、高層ビルが屹立する都会の日常が大気という胞衣にまもられているという感覚を覚えたのだ。そのとき同時に、妊娠中に熱が出たときお腹の子が熱さで弱ってしまうのではと心配したときの感覚がよみがえり、この過酷な暑さは地球にどれほどの負担をかけているのだろうと思った。そのように感じたのは、昨日、大小島真木さんの話を聞き、オゾン層を胞衣ととらえる彼女の想像力に感染したからにちがいない。
大小島作品には、喰い喰われるいのちや生と死の絡まり合いが特徴的に描かれており、セゾン現代美術館「地つづきの輪郭」展の出展作品にもその特徴は色濃くあらわれている。しかし今回は新たな視点が加わっている。それは、12メートルに及ぶ生成と腐敗と分解と進化の一大絵巻というべき大作につけられたタイトル「胞衣」に象徴される〈産〉の視点だ。
胞衣とは、お腹の胎児を包んで守る羊膜や、胎児に栄養を送る胎盤などの総称のこと。分娩後、赤ちゃんがお腹から出た後に、胞衣は後産として体外に排出される。昔は、胞衣と子が同腹で、胞衣の状態が子の状態に関わるという認識から、胞衣を壺や甕に納めて地面に埋め、子がある程度成長するまで大切に見守ったという。その一方で、胞衣を穢物とみなして処分することもあった。生命力の象徴であり汚物。祈りの対象であり廃棄物。胞衣は、聖と穢れのどちらかではなくどちらでもあり、〈産〉の視点はそうした両義性を両義的なままとらえる。
私が産の思想性に目を開かれたのは、作家・森崎和江さんの文章を読んでいたときだった。生まれて死ぬという自己完結的な一代主義的生命観に疑問を投げかけ、いのちの継承について書き続けてきた森崎さんは、産の思想化にこだわっていた。生と死だと二元論的だが、生と産と死というふうに産が介在すると、生と死は対立的にみえない。womb(子宮)とtomb(墓)の音の相似性も、産が絡むと腑に落ちる。森崎さんはエッセイ「産むこと」でこう記している――「ひとりひとりの生涯はおわっても、人びとが生きていてくれること。そのことへの信頼が、個体の死をどれほどあたためていることか、はかりしれないと私は思っているのです。」産は、いのちの連なりへの信頼を生むのだ。
そもそも自然は両義的である。森に入ると爽やかな空気を胸いっぱい吸って心身が癒されるが、これは樹木が放出するフィトンチッドの効果によるもの。フィトン(phyton、植物)チッド(cide、殺す)という言葉が表す通り、癒しの芳香は、有害な微生物や昆虫から身を守るために樹木が放出している物質なのである。癒しと殺しが不可分な世界でいのちの継承がおこなわれている。
大作「胞衣」には螺旋形が目立つ。DNAの二重螺旋構造があり、台風の目のようにも銀河系のようにも見える渦巻があり、作品中央には螺旋形に絡まりあう樹木が描かれ、右端に山菜のゼンマイの平面螺旋がある。生命の構造である螺旋形は、生命の造形美だ。「胞衣」とともに展示されている作品「感応」に、螺旋形と胎児が描かれているが、胎児もまた生命の造形美である。私的なことになるが、最初に産んだ子も、次に産んだ子も、その次に産んだ子も、はじめて対面したとき、わが子というより授かりものという感じがした。最初の子は抱いたとき息をしていなかったが、その神々しいほど完全な姿に、感謝の言葉が口をついた。これを、産んだ者特有の経験だと誤解しないでほしい。産道を通ると生と死が対立しないということは、傍にいたパートナーと分かち合った実感である。
約35億年前の生命の初発から、生まれて産んで死んで生まれて産んで ……生命の営みは変化を伴いながら連綿と展開してきた。私たちはいのちの連なりのなかにあり、対談タイトル「身羅万象」が示すように、森羅万象の一部なのである。人間の活動が地球システムを危機的状態に追い込んでいる現在、私たちは、この惑星にしか生きられない私たち自身の感覚を再調整する必要がある。生物圏が幾重もの胞衣に守られていることを示唆する大小島作品は、人新世を生きるための新たな感覚に気づかせてくれる。
AUTHOR PROFILE
結城正美|(ゆうきまさみ)
青山学院大学教授。専門は環境文学、エコクリティシズム、アメリカ文学研究。主な著書・論文に『水の音の記憶 エコクリティシズムの試み』(水声社、2010年)、”Meals in the Age of Toxic Environments.” The Routledge Companion to the Environmental Humanities (edited by Ursula Heise, et al.,Routledge,2017)などがある。主な訳書に、デイヴィッド・エイブラム『感応の呪文 〈人間以上の世界〉における知覚と言語』(水声社 2017年)などがある。
Exhibition View
1. 2. 3. 5 --- Courtesy of Sezon Museum of Modern Art, Photo by Ken Kato
《 胞衣 Ena 》2019-2022. アクリル、油絵、顔料、刺繍、土、ラッカースプレー、布. size h225 x w1149cm
《 領域 Territory 》2022. 陶土、釉薬、骨、石
《 感応 Sensuous 》2022. ミクストメディア. はみ出し壁画.
《 土が人になり、人が土になる Soil ⇔ Person 》2022. 陶土、釉薬、大地. 美術館庭園展示
Text:私が喰らう、森が喰らう
分解と生成。
私たちの身体の輪郭は、共時的に起こる二つのプロセスの螺旋の上を、つねに揺らぎつづけている。
今回、私は死によって分解されてゆく身体のイメージを託した《遺伝子の譜》(2019)を一枚の種絵とし、そこから生成してゆくものたちのイメージを発芽させるように、巨大な樹木と、その樹木を包みこむ森の絵を描いた。
美術館は新緑の森に包まれている。
私たちが何かを喰らい、分解し、排泄してゆくプロセスは、そのまま森が私たちを喰らい、分解し、排泄してゆくプロセスに重ねられる。
とどまることを知らない分解と生成。
そのすべてを包みこむ〈胞衣〉のような森。
森が私を包む。
私が森を包む。
私が森を喰らう。
森が私を喰らう。
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