| 1.3.2025
この惑星のへその上で
親愛なる“E”へ
すっかりご無沙汰しているけど、君は元気にしているかな。早いもので僕たちがメキシコに来てからもうすぐ10ヶ月になろうとしているよ。最近のシティの街中はクリスマスムード一色だね。僕らはメキシコは常夏の国だとばかり思い込んでいたけど、12月にもなると夜はそれなりに冷え込んでいて、日本からセーターを持ってこなかったことを後悔しているよ。それにしても同じメキシコにいるというのに、結局、君とはいまのところ会えていないままだ。お互いに忙しいから仕方ないけど、僕らが帰国するまでにはどこかで会えることを願っているよ。
ところで、君が前に僕に教えてくれた本をようやく読んだんだ。オクタビオ・パスの『孤独の迷宮』だよ。なんでもメキシコではとても有名な本らしいね。実際、とても示唆的な内容だった。古い本のようだけど、僕らが今考えていることとも繋がる部分が多くあったよ。教えてくれて本当にありがとう。色々と感想はあるんだけど、特に僕らの心に留まったのはパスがメキシコの「祭り」について書いていた箇所だったんだ。
「祭りの夜の喧騒の中で、我々の声は火花となって爆発し、そして生と死が一つになる。彼らの活力は微笑のうちに石化する」
「我々にとって、祭りは爆発や破裂である。生と死、喜びと嘆き、歌と呻き声がお祭り騒ぎの中で一体となる」
どうだい、この部分、覚えてるかな? パスはここでメキシコにおいての祭りを「破裂」と言い表しているんだけど、僕らはこの表現をとても気に入っているんだよ。ただ、実を言うと、ちょっと不足もあるように感じていてね。というのも、メキシコにおいてはむしろ、現実そのものがつねにすでに破裂しているように僕らには感じられるんだ。新聞の一面で、SNSの喧騒のなかで、深夜の路地の暗闇で、国境付近の密林で、メキシコでは現実というものが日々その不穏な亀裂をあらわにしている。君はそうは思わないかい?
じゃあ、メキシコにおいての祭りとは本当のところどういうものなのか。それはむしろ、つねにすでに破裂している現実の亀裂を火花のような歓声と怒声で覆い尽くし、それによってその現実を受け入れることを可能にする装置のようなものなんじゃないか、そして、それらは同時に、メキシコの大地を流砂のように覆っている、ある“諦念”の表現なんじゃないか――、パスの本を読みながら僕らはそんなことを考えていたんだよ。
メキシコの破裂した現実、それは政治的、社会的、文化的な意味にとどまるものじゃない。君も知ってると思うけど、そもそもメキシコの大地そのものが地質的な破裂の上に置かれているんだ。メキシコの国土は四つの大陸プレートの境界――言うなれば、この惑星の裂け目の上に位置している。だからこそメキシコには多くの火山があり、地震があるわけだ。たとえばパリクティンなんかはまさにそうしたメキシコの地質を象徴する存在だね。でも、メキシコの大地においてあれはたった一度きり起こった椿事のようなものでは決してない。メキシコの大地はその地中に潜勢するマグマ、喩えるなら惑星の無意識によって、絶えず震え続けてきたし、今も震えているんだ。
ああ、本当ならこの話は君と会った時に直接したかったんだけど…、もう我慢できそうにないな。だから書いてしまおう。僕らは今、この地質学的事実こそが、歴史的なコンクエストや隕石の衝突にも増して、メキシコの「微笑」(そう、これもパスの表現だよ)を形成してきた基底部をなしている――そう考えているんだ。
突拍子もないことを書いてると思ったかもしれないね。実際、これは一切の裏付けを伴わない直感のようなものだよ。とはいえ、全くの当てずっぽうというわけでもないんだ。君は知らないかもしれないけど、実は僕たちの故郷である日本列島もまた、四つの大陸プレートの境界――この惑星に幾つかある地質的な臍の上にあるんだ。そして、その列島で生きてきた僕たち日本の民もまた「微笑」の民だって言われてるんだよ。
君も来たいと言ってくれていた僕らの去年の個展で、まさに僕らはそのテーマに向き合っていたんだ。その展示で僕らは、日本列島が惑星の臍の上にありそれゆえに過酷な災害列島であるという事実が、日本の精神性の形成に寄与していると仮定した上で、その精神性を「根源的不能性-Radical inpotency」と言い表してみたんだ。奇妙な言葉だろう? もちろん、僕らの造語さ。その言葉で僕らが言い表したかったもの、それは日本の民が抗うことのできない自然の猛威に対して抱いてきた不能感、それゆえの受動性、そして諦念についてなんだ。もっと言うと、日本列島においては能動と受動が対立関係にあるのではなく、相即関係にある。要するに自他の境界がすごく曖昧で、主体性が確立されてないってことさ。君も日本に来たら多分それを感じるだろうと思うよ。
僕らは日本の「微笑」もまた、この根源的不能性の一つの表象だと思ってる。そして―ここがとても大事なことなんだけど―その素顔なき仮面に込められているものは、どこまでもままならぬこの世界において、その世界とそれでも和解したいという、日本人の祈りなんじゃないかって思ってるんだ。
人為を含む自然のなかで、乗り越えることが難しい不条理に立たされた時、僕らにできることは祈ることくらいしかない。祈りはある一つの世界との関わり方だけど、それは根本的に無力なものだよね。無力というと何か否定的な意味に感じるかもしれないけど、僕らはその無力さのうちには光明もあるって思ってるんだよ。たとえば日本語において「諦める」という言葉は「明らかにする」と同じ語源を持っていたりもする。つまり、祈りとはその諦念のなかで何かを「明らかにする」行為でもあると言えるんじゃないか、そう思うんだ。
そう、僕らはメキシコにもまた、日本のそれと似たような精神的土壌があるんじゃないかって睨んでいるんだよ。確かにメキシコは多様な文化、多様な民族性を持つ国だし、一見するとバラバラのようにも思える。でも、そのバラバラさの中にも共通したものがあるように感じてるんだ。それはメキシコ人が世界に対して示している、ある種の「軽さ」だ。それは軽快さとも言うことができるけど、同時に軽薄さとも言うことができる。君たちが歩んできた歴史のあまりの「重さ」を前にしたとき、その軽さが否応なしに際立って映る。不躾に感じたかな? ただ、僕らはそうしたメキシコの「軽さ」の根底には、透徹した諦めの観念と、それゆえの祈りが横たわっているように感じているんだよ。
この約10ヶ月間、僕らはメキシコの各地を旅して回ったんだけど、その中でも印象的だったのは、メキシコ各地の祭りで見た、無数の微笑するヴィルヘンと、そのヴィルヘンに祈りを捧げている多くの人々の姿だったんだ。歴史の重みを湛えたその微笑はいずれもとても厳かだった。豪奢な教会で、うらびれた街路で、子供達が遊ぶ公園で、窓から見える民家のリビングで、深い沈黙を携えて屹立するその姿は、あたかも破裂し、寸断されたメキシコの大地を、その一身において繋ぎ止めているかのようだった。もちろん、僕たちはその存在が孕んでいる複雑な歴史についても知っているし、それがこの地で時に「麻酔薬」として用いられてきた経緯についても聞いている。だけど、それでもなお、メキシコを象徴しているかのようなその微笑に、美しさを感じずにはいられなかったんだ。その微笑の奥に、そしてその微笑に包まれて生きているメキシコの人々に、この地を覆っている諦めの先にある光明を感じずにはいられなかったんだ。
ああ、分かってるって。複雑な物事をすぐにこうやって大きく捉えようとするのは、僕らの悪い癖だよね。もちろん、僕たちはいまだメキシコの「ある部分」しか知らないわけで、だからここに書いたのは、あくまでも未完の、そして僕たちのフィルター越しに光学的な歪みを伴った、架空のメキシコ像なんだと思う。そして、きっとそれはどれだけ僕らがメキシコに長く住んだとしても、永遠に「未完」の、「架空」のままなんだと思う。
でも、実際のところ、君はどう思うかな? 僕らと君たちはぱっと見はあまり似ていないけれど、共にこの惑星の臍の上で生きる、どこか似たような形の「不能」さを抱えた兄弟同士のようには思えないかな? 同じ穴のムジナってやつさ。次会った時には是非このことについての君の考えを聞かせてほしい。いずれにしても、いまや僕たちはすっかりこの地と、この地の人々の微笑に魅せられてしまっているんだ。きっとこの先も長い付き合いになるんじゃないかと思ってるよ。
あ、今、外で花火の音が聞こえたよ。どうやら今夜はメキシコにとってとても大事なヴィルヘンを祝う祭りの夜らしいね。この手紙を書き終えたら僕らも少しだけ街に繰り出してみようと思ってる。きっと君のことだから今頃どこかの街で、この祭りの夜に乗じて大いに飲んだくれているんだろうね。はしゃぐのもいいけど、夜道はまだまだ危ないらしいから、くれぐれも気をつけるんだよ。君にもう会えなくなってしまうなんて、あまりに寂しすぎるってものだからさ。
2024年12月12日、敬意を込めて、“M”より